涙ながらに「日中和平」を主張した陸軍参謀次長がいたことをご存じですか? 『多田駿伝』

 

右でも左でもない。全体主義も一国主義もダメだ。涙ながらに戦線拡大に反対し、世界は一つであると考える「一体主義」の理想を唱え続けた陸軍参謀次長がいた――。

 

日本軍が日中戦争から大東亜戦争(太平洋戦争)へと突き進んでいった要因として、しばしば陸軍の暴走ということが挙げられます。実際、多くの陸軍将官が、誤った戦略の下に侵略戦争を仕掛けた元凶とされ、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)などで「戦犯」として罰せられました。その結果、陸軍だけを”悪玉”と見なすような歴史観が戦後の日本に広がりました。しかし、そうした見方は本当に正しいのでしょうか?

 

かつて陸軍の参謀本部には、戦線の不拡大を主張するグループが存在していました。満洲国建国後の中国大陸において、無闇に作戦地域を広げるのではなく、「日中和平」の道を模索しようとする勢力でした。戦史や昭和史に詳しい向きにはよく知られた存在ですが、中学校や高校の歴史教科書には詳述されていないためか、彼らの動向はあまり広くは知られていません。昭和10年代の一時期、その「不拡大派」の中心的存在として、盟友の作戦部長・(いし)(はら)(かん)()と共に奔走していたのが、参謀次長・()()駿(はやお)(1882-1948)でした。

 

(せい)(るい)共に下る」――。戦争の口火を切った()(こう)(きょう)事件から半年後の昭和13(1938)年1月、日中交渉の継続か打ち切りかを決する大本営政府連絡会議の席で、多田次長は涙ながらに「日中和平」を主張しました。その直前の南京攻略(南京事件)に最も反対したのも多田次長だったとされています。この時期、政府は交渉打ち切りと戦線拡大を支持しており、参謀本部の一部だけが「不拡大」を訴え続けていたのです。こうした状況を、多田自身が「奇怪に感ぜらるるも真実なり」と戦後の手記に書き残しています。

 

しかし、結局「不拡大派」の意見は退けられ、一時は多田が次期陸相の最終候補に推されたものの、その人事も実現しませんでした(さらにその翌年、陸相に抜擢されたのが(とう)(じょう)(ひで)()であり、のちに多田と石原は陸軍内で対立関係にあった東條陸相から待命[=退役]を下されることになります)。多田・石原ら「不拡大派」が要職から外されて以降、日本は泥沼の日中戦争、そして太平洋戦争に突入していったのでした。

 

多田駿については、これまで大部の人物事典でも「関係する文献は極めて少ない」などと評され、伝記や評伝は一冊も出版されていませんでした。大学で近現代史を学んだ著者は、在学中にこの多田の存在に興味を抱き、厖大な数の文献を読み漁り、遺族の元に眠っていた遺品や未発表史料を発掘しながら、その足跡を丹念に辿りました。すると、宮城県仙台で生まれ育った青年時代から「弱い者いじめ」を忌み嫌い、赴任した中国各地では日本人の優越意識を戒め、戦場で玉砕していく若い兵士らの身命を案じつつ、禅僧・(りょう)(かん)の生き方に心酔していた、人間味あふれる素顔が明らかになっていきました。

 

本書は、「軍人らしくない軍人」と評された多田駿の思想と行動を辿る、初めての評伝となります。戦争や陸軍に対する見方が一変する刮目の本作品を、ぜひご一読ください。

 

 

『多田駿伝』岩井秀一郎

定価:1700円+税

ISBN 978-4-09-379876-1

 

https://www.shogakukan.co.jp/books/09379876

涙ながらに「日中和平」を主張した陸軍参謀次長がいたことをご存じですか? 『多田駿伝』